この桜の大樹は、中村(峯)伯耆守惟冬が眠る墓地内の菩提樹になっています。伯耆守惟冬は天正年間、当時の峯村(現、南阿蘇村中松)に築城された鶴翼城(峯城)城主中、阿蘇家の命を受け矢崎城(現、熊本県宇土郡三角町)城代を兼務することになった。しかし、天正8年(1580)に薩摩の島津氏との戦いで矢崎城で戦火に散りました。故に室(妻)と4歳になった嫡男、惟尚(後に峯伯耆守惟尚)は、少数の家臣とひそかに故郷峯村に戻りその地名である峯(みね)伯耆守を名のった。
桜はその時期に植えられたといわれ、戦いに散った城主、惟冬と家臣たちの御霊を弔うため一心に行をおさめたというところから「一心行」の名がついたとされます。
その後、嘉永2年(1849)の山津波、昭和28年(1953)の大水害などの天変地異にも生き続け、400余念経た現在も見事な花を咲かせています。また、昭和初期の落雷により幹が6本に裂けたため今の樹形になっています。
現在、惟冬公の直系の子孫により墓地と共にこの大桜は守られています。
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